マーレが目を覚ますと、気絶する前の息苦しさが無くなっていた。理由を考え、自分が水中にいるからだと気がついた。気絶したことで、朦朧とする頭をスッキリさせるため、頭を軽く左右に振る。
「やっと起きたか」
 声のした方を向けば、そこではイデアと呼ばれていた天使が水中を漂っていた。不自由している様子はなく、まるで水行の民の様に自由だ。
「水中でも呼吸が出来るの?」
 身体を軽く動かし、異状が無いかの確認をする。水中の中を泳げば、肌の上を流れる水が気持ちいい。大きさの十分でない水槽では味わえない感覚だ。
「やっと喋ったな」
 イデアが、マーレの言葉に答えず、気絶する前に疑問に思っていたであろうことを口にする。
「こちらのことは心配してくれなくても結構。私たち天使は、一定以上の階級になると、いかなる場所でも活動制限を受けない」
 その言葉にマーレが感心していると、不意にイデアが顔を背けた。その目はわずかに泳いでいる。
「今更だが、服を着てほしい。上半身裸では、周りのものが勘違いする」
 マーレが自分の身体を見下ろせば、胸当てとして貝殻があるのみで、確かに服は着ていない。
「勘違い?」
「そうだ。ここでは、上半身裸なのは娼婦か奴隷と決まっている。君はそのような立場ではないし、こちらとしても目のやり場に困る」
 彼女達水の民にとっては十分に着込んでいる状態なのだが、どうやら肌の露出が多すぎるらしい。しかし
「私たちの国では、服を着ないことで身の潔白と武器の不所持を主張するのだが」
「だったら、その目的は既に達成されている。早く服を着てほしい」
 マーレとしても、別に服を着ることに抵抗がある訳ではない。むしろ身の潔白の証明が終われば、今度は水の抵抗を増やし、機動力をそぐ意味も込めて、服を着せることはよくあることだ。
「ではそうしましょう。それで、服はどこにあるの?」
「まさか持ってないのか!?」
 疾しさからだろう。いままで顔を背けていたイデアだが、それを聞くと凄まじい勢いでマーレの方を向いた。その目は大きく見開かれている。
「え、ええ。だって、私たちは交渉を終えるまでは服を着ない。もしくは、服を着せるのは逃げる速度を落とすためだから、相手側が用意するのが普通だったもの」
 それを聞いたイデアが、肩を落とす。その様子を見ると、どうやら一切その辺りの知識は無いようだ。
 どうするのだろうと思っていると、イデアは己の翼から羽根を一枚抜き取った。
 すると、羽根が光った。光が収まると、そこには純白のTシャツがあった。
「これを着ていろ」
 そうは言ったが、イデアが動かない。どうやらシャツを投げようとしたのだが、ここが水中であることを思い出したのだろう。手渡そうにも、未だに胸当てしかつけていないマーレに近づくことにためらいがあるようだ。
 光の使者だの、選民思想だのというイメージからは、あまりにもかけ離れたその純情さに思わずマーレの頬が緩んだ。
「……何を笑っているんだ」
 どうやらその表情をしっかりと見られていたようで、憮然とした声が聞こえた。
「別に、何でもないわ」
「……ふん。で、我はこれをどうすれば良い」
 未だにイデアの手にある服を見て、マーレは思わず苦笑する。
「ほんとに排他的なのね、光の使者って。そんなことも知らないなんて。手を放してちょうだい。そうすれば水を操って手元に運べるわ」
「そうか」
 そう言ったイデアが、シャツから手を放す。それを見たマーレは、水を操りシャツを手元に持ってくると、それを着た。それは今までに着たことが無いような肌触りだった。
「はぁ……」
 マーレが服を着たことで、イデアがやっとこちらを向いた。
「それではいよいよ交渉を始めようと思うのだが、その前に一つ。なぜ水槽の中では一言も放さなかったのだ」
「放さなかったんじゃなくて、話せなかったのよ。私たちは、水中じゃないと声を出すことは出来ないの」
「どうしてそれを始めに言ってくれなかったのだ」
「だって、私をここに連れてきた人たち、私がなにか言う暇もなくどっか行っちゃったんだもの」
「……それはすべて君の格好が問題だな」
「どう言うこと?」
「何と言うか……。我らの国の女性は須く美しい。神が作られ、愛される種族だからな。しかし、君にはそれとは違った美しさがある。免疫の無い彼らは、一瞬で恋に落ちる。落ちなくとも、物珍しさで恋と勘違いをする。だが、神に忠実な我らは、他種族にそのような感情を抱くことを疾しく思う。だからこそ、間違いを侵す前に離れたのだろう。それも、上半身裸という、ここでは何をしても良い対象と見れる格好の、外交官ならなおさらだ」
 イデアの話を聞いているうちに、マーレは首を傾げた。
「さっきから聞いてて疑問に思ったんだけど、あなたは他種族にたいして、それほどの抵抗とか、嫌悪感はないの?」
「あー、我は外交官だからな。いろいろな種族と対話を重ねるうちに、そんなものは無くなっている」
「じゃあ、この交渉については……」
「個人的には積極的にやるべきだと思っている」
 マーレはふと疑問に思った。目の前の人物の言っていることと、スルスが言っていたことが一致しない。スルスは、光の使者が他種族の干渉を受けない、と言ったことにも怒っていた筈だ。それともこの人物が対応したのではないのだろうか。
「一つ聞くけど、水行からの交渉人は私の他に来た?」
「いや、我は聞いていないな」
「あなたの他に外交官はいる?」
「二人いる。だが、他種族との交渉なら、例えそれが非公式なものであっても、情報の共有はされる」
「じゃあ、水行からの外交官は来ていないのね……」
「その通りだ」
 マーレの言葉が途切れると、イデアが首をかしげた。
「それがどうかしたのか?」
「いえ、何でも無いの。じゃあ、交渉を本格的に始めましょう」
「長い前置きだったな」
 イデアが苦笑とともにため息を吐いた。
「交渉の一環で聞きたいんだけど、『我らは光より遣わされし身。他種族の干渉は受けない』。これが陽行の基本方針であることは間違っていない?」
「困ったことに」
「じゃあ、もう一つ。あなたが他種族と積極的に仲良くしようとしていることは、何人のヒトが知ってる?」
「あまり多くの者は知らないだろう。公にしすぎると、動きにくくなるどころか、この立場を手放さなくなるかもしれない」
「そう。それだけ分かれば十分だわ。今日の所はここまでね」
「送ろう」
 イデアがそう言ったが、マーレは首を横に振った。
「あなたがあなたの秘密を教えてくれたから、私も一つ、水行の秘密を教えてあげる」
「?しかし、個人の秘密と、種族の秘密では、釣り合わないだろう」
「いいの。これっくらいしないと、陽行は信用してくれないと思ってたから。そう言ってくれる相手に出会えたってことだけで、十分な収穫になったもの」
 そう言うと、マーレは腕を大きく回し、円を描いた。すると、その腕の軌道上の水の色が変わった。まるで水を凝縮したように、その向こう側がかすんで見える。そしてそれは円の内側もだ。
「実は、私たち水行の種族は、水中から水中へは、自由に行き来できるの。こっちへ来る時は、どこに水があるか分からなかったから、使えなかったけど、明日からはもうどこに水があるか分かったし、勝手にこっちにこさせてもらうわ」
 言い終わると、マーレは自分で作った円を通って、自国領に戻っていった。


 陽行と交渉を始めて、ほぼ一年が経過した。
 今日もマーレは陽行の湖の中で、イデアと両者の歩み寄りについて話していた。
 イデアの態度があまりにも陽行らしくないので、正直本当に外交官なのか心配だった。その発言はことごとく自由だし、現体制派にあまりにも反逆的だからだ。その発言の危険さに、マーレの方が周囲を気にしてしまう。しかし、どうやらそこまで隙を見せるのは、マーレの前だけらしい。しっかりと陽行の情勢は把握しているし、新しい意見なども、本部から持ってくる。そのことから、情報の共有が出来ているというのは、間違いではないということを知った。
「……我が思うに、陽行はこれを契機に変わるべきだと思うのだ」
 交渉中、突然イデアがそう言った。それは、祭壇の管理を水行がするにあたって、何が障害となっているかを再確認している時だった。
「異種族間で結婚が行われ、ハーフも今では珍しくない。そんなこの世界で、純血にこだわるのはくだらないと思う。だからこそ、数少ない純血である我が種族に誇りを持っている者もいるだろう。しかし、大半の者が他種族との触れ合いがないために形だけの純血主義を名乗っているに他ならない」
 いきなりの言葉に、マーレは戸惑う。
「いきなりどうしたの。それは分かってるわ。でも、先に祭壇の管理者を決めようって話になったじゃない」
 そもそも、どうして陽行の純血主義のことにまで問題になっているのか。それは、祭壇の管理を水行がするにあたって、純血主義の存在が管理者の身を危険に晒すことが分かったからだ。
 陽行は純血主義を誇りにし、他種族が領地に入ってくることを嫌悪している。そこで、祭壇の管理者を他種族に任せてしまえばどうなるか。管理者をどうにかして領地から出そうとする、武力派が出てこないとも言い切れないのだ。
 どうにかしてその出現を抑え、管理者に対する注目の集中を和らげるため、同時に他種族の移民や、他種族との貿易を開始しようと始めようとしたのだ。
「我が思うに、我ら二人で前例を作ってみてはどうだろう?」
「前例?ちょっと待って、私の話聞いてる?」
 いつものイデアと様子が違い、マーレが戸惑う。こちらの話を聞き、一人で話を進めるということはしてこなかった彼だ。それが、まるで何かを恐れているかのように話を強引に進めようとしている。
「聞いている。結婚しよう」
「……は?」
 祭壇の管理者の話をしていた筈が、なぜかプロポーズされたことに、マーレは思考が止まった。
「それと同時に、まずは水行との貿易を開始する。そうすれば、まずは商人同士か友好関係を結ぶだろう。行き来が激しくなれば、何人かは両思い、もしくは片思いになるだろう。そうすれば既に半分成功だが、正直、結婚まではなかなか踏ん切りがつかないはずだ。そこで、結婚キャンペーンを実施する。他種族との結婚で、保証金や、なにがしかの特典をつける。更に、我ら二人が結婚しておけば、更に結婚はしやすくなるだろう」
 マーレが、のろのろと手を挙げる。
「あの、いきなりすぎない?っていうかどうしたの。そもそも前提条件に無理があるわよ……?」
「前提条件?」
「私と結婚するって言うけど、私が反対した場合は?」
「何を言っているのだ?」
 イデアが、さも不思議だという顔で言う。
「この交渉の席についているということは、結婚はしなくとも、陽行に永住はするのだろう?」
「そりゃ、永住はしなきゃならないけど……」
「それとも、我と結婚するのはいやか」
「違うわ。私の意思に関係なく前提条件に組み込まれているのが気に食わないだけよ」
 それを聞いたイデアが、安堵の息を吐いた。外ではばれないかもしれないが、ここは水中だ。吐いた分の空気が、そのまま泡となってイデアの口から出た。そして、それを目で追うイデアの顔が赤くなった。
「……好きだ。我と結婚してくれ、我が愛しきヒトよ」
 それを聞いたマーレは微笑んだ。
「喜んで!」


 その後、二人で計画の細部を話し合った。イデアから結婚話を聞かされた時から、次第にマーレが陽行の土地で過ごす時間は長くなっていた。
「そして結婚当日。分かっちゃいたけど、騒がしいわね……」
 陽行のしきたりに習い、ウエディングドレスに着替えたマーレが、隣に漂うイデアに言う。今は二人のために作られた個室で、式前の待機中だ。式場から鐘の音が響けば、式の開始だ。マーレが陽行に来てから、何かと縁のあるウトゥックが、もう少しで準備が整うと言っていた。個室の外からは、参列者のざわめきが聞こえてくる。
「心配するな。最終的には同意せざるを得ない状況にする」
 そう言うイデアも、いつも纏っている布ではなく、立派なタキシードだ。
 結婚式は、マーレの都合に合わせて、水中で行われることになった。そのため、参列者は陽行の中でも、水中で活動できる陽行の上位者。そして、水行の上位者、長寿族の水中活動の可能な者となった。
「……どうやら準備が整ったようだな」
「え?」
 イデアの言葉にマーレが疑問を持った。マーレにはなにも聞こえなかったからだ。
「準備ができれば鐘が鳴るといったな」
「うん」
「鐘は天使の中でも上位者にしか聞こえない。そんな、戦闘作戦に用いられるものだ。今回、鐘の存在を、他種族に知らせるために、無理矢理用意させた。こちらも情報を公開しなければ公平ではないからな」
 そう言って、イデアが個室を構成しているカーテンを開き、マーレの手を取った。マーレが、手を引かれるがままに控え室から出ると、参列者の視線が一気に集中してきた。参列者の中には、スルスやヴォロンテの姿もあった。
 視線の集中する中、二人が祭壇の前に進む。そして、祭壇の前で振り返り、参列者に相対した時、一人の天使がヒトの集まりから一歩前に出た。
「正直言って、賛同しかねますな、イデア殿」
 その天使は、計四枚の翼を持つ老天使だ。翼の数で言えばイデアの方が上だが、老天使の言葉を表立って非難する者はいない。どころか、それに便乗する声があるぐらいだ。どうやら、この老天使が他種族との交易の反対派の筆頭であるらしい。
「ここは神の御前ぞ。静粛にせよ。その上、今更何を言う。これは神にも許可を取ったこと。それに反対するとは、良い度胸だな」
 イデアが老天使およびその賛同者の態度を注意する。
「神の御前?ハッ!笑わせる。そのような即席の祭壇に神など宿ろう筈も無い」
 老天使の言葉に、わずかな者が黙り込んだ。それとは別に、息を呑む者の姿もある。反応の別れたその姿に、マーレが内心で首を傾げた。
「……その言葉、神に対する侮辱ととれるぞ」
「侮辱?こちらを侮辱しているというのであれば、貴様はないがしろにしているではないか!!我らが神を水中に沈めるなど、例え即席といえども許されることではないぞ!」
『やめぬか、見苦しい』
 声を荒げる老天使を止めたのは、突如現れた光の塊だ。光は、目を潰すような激しい物ではなく、優しく、暖かみのある光だ。光はやがて、人間の姿になった。
『朕は二人の結婚を祝福する』
 光の言葉に、老天使が慌てて跪いた。それに習うように、陽行の者が次々と跪いていく。その様子に、マーレや、陽行でない者は何が起きているか分からず、近くにいる者と何が起きているのかを相談している。
 マーレも、光のあまりの神々しさと、その存在感に、イデアと繋いでいる手を強く握りしめた。
「安心していい。我らが神だ」
 イデアがマーレの手を優しく握り返しながら、マーレに囁いた。
『イデアよ』
 光がイデアに視線を向けた。
「はい」
『これから先、あらゆる困難があろう。しかし、それに負けること無く、二人で協力し、乗り越えよ』
 光は、それだけ言うと、それまでそこにあった存在感が、まるで夢であったかのように、自然に消え去った。
 後に残されたのは、突如現れ、突如消えた光に呆然とする面々だけだった。


 その後、全てはイデアの計画通りに進んで行った。今では水行だけでなく、全ての種族と交易が行われている。中には、未だに純血に拘る一族もあるようだが、それはそれで大事なことだと言う。マーレはヴォロンテと対峙していた。
「交渉ご苦労様。まさか陽行にここまで頭の柔らかいものがいたとは思わなかった」
「スルスと交渉したのはあなたね?」
 始め、陽行と交渉することになった時、疑問に思ったことをヴォロンテに確認する。
「そうだよ。よくわかったね」
「どうしてそんなことをしたの?」
「始めは上層部が、ルサールカとの付き合いを、強制的に打ち切るために、彼女を指名したんだ。でもそれをおとなしく受け入れるなんてごめんだからな。知り合いに頼んで、代理を立てたんだ」
 そう言ってヴォロンテが笑った。そのヴォロンテは、今ではスルスと結婚して、幸せに暮らしている。
「ところで、イデアと交渉してる時、強引に祭壇の話を進めたんだけど、何したの?」
「あれ、それもお見通し?」
 ヴォロンテが笑いを引きつらせる。
「当然」
「特に何もしてないさ。ただ、交渉の件をよく思っていない武闘派の連中が、君を暗殺しようと画策しているってことを、君の夫に伝えただけだよ」
「そんなことが……」
「ま、君に死なれちゃ、スーの後釜に君を置いた僕も後味が悪いからね。何はともあれ、仕事の報酬は、神様を説得したってことで前払いしてるから」
「……は?」
「なに、まさかあんな都合のいいタイミングで、神様が御降臨なさったと思ってるの?」
 あまりにもあっさり明かされた秘密に、マーレの開いた口が塞がらない。
 やれやれというように、ヴォロンテが首を横に振る。
「君の旦那、肝心な所で抜けてるから、しっかりサポートしてやってね」
 そう言うと、ヴォロンテは自領に帰っていった。後に残るのは、未だに状況が飲み込めないマーレだけだった。
 

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